
初めまして、このブログにお越しいただき、誠にありがとうございます。
尾﨑まり江(おさきまりえ)と申します。
1972年生まれの53歳(2025年現在)、もう年齢を言うのも嫌になっていますが、美容関係の仕事もしているので、少し若くは見ていただけます。
ここは、私のことを知っていただくための自己紹介ページです。少しでも興味を持っていただけると嬉しいです。
- 名前:尾﨑まり江(おさきまりえ)
- 動物占い:猿🐵
- 出身地・住まい:神戸
- 家族:一人娘と婿、孫2人
- 趣味:自分磨き、旅行、食べ歩き、グルメSNS発信
- 行ったことがある国:韓国、中国、シンガポール、タイ、インドリシア(バリ島)、香港、台湾、ハワイ、グアムサイパン
尾﨑まり江はこんな人
主なオンラインビジネス事業
- ブログ運営
- オンラインビジエススクール
- オウンドメディア運営
- 副業コミュニティ運営
- 美容クリニック提携(10歳若返り術/妊娠線・傷跡修復)
- 海外保険(資産運用・税金対策)紹介
- 結婚相談所紹介

何をやってるの?と聞かれることが多いのですが、ブランディングに必要と言われる「肩書」はとっぱらいました。「尾﨑まり江」という自分ブランドで活動しています。
「いろいろやってるのはなぜ?」と思ったら、最後まで詳しい自己紹介を読んでください。
尾﨑まり江 詳しい自己紹介
50代にもなると、自己紹介が長くなる上に、なかなか波乱万丈でもあるので、暇つぶしに読んでください。
【人見知り】幼少期〜小学生時代

幼少時代〜小学校低学年までは、とにかく人見知りが激しく、保育園の玄関で「行かない」と駄々を捏ねていたのが日常的でした。
父はサラリーマン、母は、結婚してすぐ手芸店を開き、私を出産してからも1週間ほどしか休まなかったそうです。

3つ下に妹ができて、私とは真反対で、色白で目がくりくりしていて、人懐っこく、母から可愛がられる存在になっていきました。
私は、人見知り、根暗、色が黒く、目は一重。母にとっては「可愛い」とは言い難い性格、見た目で、妹と比較されることで、妹に嫉妬心を抱いていました。
小学校に入っても、人見知りは相変わらず。
クラス替えのたびに、新学期は1人で過ごす日々でした。
一度だけ、5年性の時の担任が、THE 関西人のフレンドリーな人で、その先生だけは私のことを「おとなしい」とは思っていませんでした。
【仮面時代の始まり】中学生時代

中学生になると、部活動が同じ生徒同士が仲良くなる傾向にありましたが、真面目に行ってなかったので、ほぼ帰宅部みたいな状態でした。
所属していたのは卓球部で、他の部に比べると、先生も先輩もゆるゆるだったので、サボっていても、お咎めはありませんでした。
ある日の放課後、友達ととある建物の前の階段に座って、おしゃべりをしていたとき、他の学校の女子生徒2人が禁煙パイポを口に咥えていました。タバコなのか?禁煙パイポなのか?
じ〜っと見ていると、
「何、メンチ切っとんねん💢」
と絡んできました。正直に
「タバコか、禁煙パイポか、どっちかなと思って」
とビビりながらも答えたのを覚えています。その後、ぐだぐだ何かを言ってきていました。てっきり、年上なのかと思っていたけど、同じ1年生だったみたいです。一緒にいた友達が、部活の試合で行った学校にいたそうです。
また、ある日の夕飯で、整形の話になった時、私は口が大きいのがコンプレックスだったので、

大人になったら口を整形したい
そう言ったら、母親が
「あんたは、目を整形した方がいいね」
と言ってきたことにショックを受けました。
この頃から、私は一重の目がコンプレックスになりました。(ちなみに、整形してません)
幸い?父親は「そんなことせんでもいい!」と言ってくれたことが救いでした。
さらに、中学3年生の体育大会の前日、数人の友達と、カメラって持ってきていいのか?どうか?という話になり、ダメとも言われてないし、持ってこようということになりました。
自分のカメラを持っていた私が持って行くことになり、当日、みんなで写真を撮っていました。
すると、柔道部の強面の先生が来て、「誰や!カメラ持ってきたんは!」と怒鳴りました。

私です
と、ビビりながら答えたのですが、体育大会後、担任に職員室に呼び出されて、怒られている時、涙が出そうなのを我慢していると、
「なんやその目つきは!」
と怒鳴られ、さらに、柔道部の先生に対しても
「睨んだらしいやないか!」
と怒られ、これも一重の目のせいだと、自分の目が大嫌いになると同時に、この担任も嫌いになりました。

笑っていれば、誰も怒っている、睨んでいるとは思わない
この頃から、楽しくなくても、面白くなくても、ヘラヘラ笑うようになり、この時期を私は「仮面時代」と呼んでいます。
高校生〜短大時代

高校は、学校見学に行って決めた新設校。校舎がとにかくキレイというだけで選びました。
新設校で、私は3回生。
まだ地域の中でもレベルが安定しない高校ということで、母親も塾の先生も大反対。塾では、この高校を受験すると決めてからは、見放されたほど。今では、レベルが上がっているそうで、当時の私では入れないかもですね。
そんな新設校なので、同じ中学出身の生徒も少なく、5〜6人だったかな?
1回生から生徒は増え続けていて、私たちの学年は11クラス。3年生は8か9クラスで、11組の私たちは、3年生と同じフロアに教室が設けられていました。(1フロアに10クラスまでだったので)
そのため、同じ学年との接点はあまりなく、2年生に上がる時、クラス替えで、他のクラスの生徒と一緒になる自信がなく、仲良しグループで、1クラスしかない文理系に進みました。
理系に弱い私は、数学や化学は、いつも赤点ギリギリ。後悔しても時すでに遅しでした(笑)
高校1年生の冬、友達に誘われて、ファミレスでバイトを始めました。
面接に受かってから両親には事後報告すると大反対。
「社会に出たら、いやでも働かなあかんのに!今から働かなくていい!」
それもそうだなと、今はしみじみ思います(笑)
3年生の5月のゴールデンウィークは、友達の親戚が営んでいた北野異人館の土産物店と掛け持ちして、その後、受験生として勉強を始めました。
本当は、勉強したくなくて、就職したいと言ったのですが、高卒の母親は、自分が大学に行けなかったのを後悔していたのか、「短大くらいは出なさい」と、何度も説得されました。
高校側も、進学率を上げたかったのか、進路指導の先生から進学を勧められました。本当は、4年生に進学して欲しかったと思います。
進学するからには、さっさと推薦で決めたい、そのためには、高校3年生の1学期の中間、期末試験の成績を上げる必要がありました。
やればできる子で(笑)
なんとか推薦してもらえることに。
しかし、模試では、行きたい短大に合格するには難しいかも?という判定でした。志望校を下げないかという担任の先生の提案を却下し、志望校を受験しました。
ただただ、電車の乗り換えが嫌、遠いのが嫌という理由だったのですが(笑)
受験日の少し前に受けた模試では、判定が上がっていて、受験後、担任が「楽しみだね」と声をかけてきました。
薄っぺらい封筒が届いていて、母が私が帰るまで、神棚に置いてくれていました。
結果を神棚に置かれても…ですが、その薄さに「不合格かも」と思いながら封を開けると、見事合格していました。
5月のゴールディウィーク明けから受験勉強を開始して、わずか半年で短大合格。学科は違うものの、同じ短大を受けて不合格だった同級生には少し妬まれました(笑)
高校3年生の冬休みから、新たなバイト先でバイトを始め、3学期はほぼ「風邪をひいて」休みました(笑)
この頃から、自由人で社会不適合者の本領発揮してましたね。
短大時代は、ほぼ毎日学校が終わったらバイトへ。
1回生の時は飲食店、2回生になってからはアクセサリー店へ。
飲食店のバイトで知り合った男性と初めてのお付き合い。
短大2年の秋、妊娠が発覚。

2歳上の彼は4回生で、それぞれ就職も決まっていて、産む産まない、結婚するしない、親を交えて話し合ったり、2人で揉めたり、いろいろありましたが、結婚して私の実家に住むことになりました。
ほぼ一生分のイベントを終えた1年
つわりで苦しみながらも、短大最後の試験を終えて、無事卒業が決まりました。
1993年1月、成人式。

妊娠が分かる前に購入していた振袖を着て参加。帯で苦しくて、すぐに帰って脱ぎましたが。
同年2月は、結婚式。

お腹も大きくなるし、結婚式なんてと思っていましたが、母の強い希望もあり、結婚式を挙げました。
そして、3月は卒業式。
仲のいい友達以外は、私の妊娠のことは知らなかったと思います。
どうしても南野陽子ちゃんが映画「はいからさんが通る」で着用していた袴が着たくて、レンタルしました。

卒業後は、バイトも辞めて、マタニティ服を着て専業主婦になりました。

一般的には、数年かけて着る衣装を1年、いや半年で着ました。
エステのスクールへ

美容業界への第一ステップは、この時です。資格もスキルもない私に
「技術を持っていれば、なんとかなるから!」
手芸店から化粧品の訪問販売を経て、私が中学生くらいの頃に、エステサロンを開業していた母。そんな母の勧めで、エステのスクールに通うことに。
娘は生後5ヶ月くらい。
寝返りするのも遅かった娘は、母のエステサロンでおとなしく寝ていたようです。当時、母の店で働いていたスタッフさんは、子供ができずで、娘のことをとても可愛がってくれました。
朝5時に起きて、母乳を絞って出かけても、胸は張って、母乳パットが母乳でパンパンに。数週間のコースだったと思います。
それから、週1回ほどは、母の店を手伝っていました。
女性らしい細い指じゃない、ぽっちゃりした手は、コンプレックスでしたが、「手が気持ちい」と言われるようになり、天職だと思っていました。
阪神大震災と離婚

結婚前からキレやすく、言葉がキツかった夫と未来には、不安がありましたが、結婚して1年経過してから、私も方が離婚を考えるようになりました。
実家に住んでいた私たちは、結婚した翌年の冬ごろ、同じ市内の市営住宅に引っ越しして、家族3人で暮らしていました。その家を出て、数日実家に帰っていたこともあります。
何度も話し合いましたが、夫は「子供のために」と離婚はしたくなかったようです。
そして、社会人経験のない私には何もできない、子供は自分が育てると言い始めました。しかし、冷静になると「やっぱり母親がいた方がいい」と、最終的には、離婚にも応じ、親権も私が持っていいということになりました。
離婚の話が出て半年くらい経ったでしょうか?
1995年1月15日。当時は、まだ成人の日で日本の祝日。
お互いの両親を呼んで、離婚することを伝えました。
私には優しく、たいていのことは許してくれた父でしたが、離婚しても戻ってくるなと突き放されました。
私はそのまま市営住宅に住む予定に、夫は翌日、賃貸住宅の雑誌を買ってきました。(当時は、まだインターネットが家庭に普及してなかったので)
両親に離婚報告をした2日後の明け方、ドスンと強い衝撃を受けました。私は、窓の外に赤い光を見たように感じました。と同時に、建物が大きく揺れ始めました。
ベッドの周りは特に落ちてくるものもなかったのですが、夫が私と娘に覆い被さって、守ってくれたような気がします。娘は1歳半。すやすや眠っていました。
揺れがおさまりましたが、電話はつながらない。電気も止まっている状態。
12階建ての2階に住んでいた私たちよりも、高層階の方が揺れたようで、外に出ると、公園に避難している人が毛布などにくるまっていました。
近所の電気屋さんが急遽、店を開けてくれたようで、そこで夫が電池を買ってきて、ラジカセに入れてラジオを聞きました。
あちこちで建物が倒壊していることが、なんとなく分かったものの、テレビで映像を見るまでは、何が起こっているのか、よく分かりませんでした。
家の中の被害は、前日の夜に食べたシチューの鍋が床に落ちていたのと、娘の誕生祝いにいただいた陶器のピーターラビットのオルゴールが割れていたくらいでした。
そのうち、電気と水道が使えるようになりました。近所でガス管が破裂したとかで、ガスだけは止まったままでした。
お隣に年配のご夫婦が住んでいたのですが、そこの奥様が来て、水もそのうち止まるから、貯めれるだけ貯めておきなさいとアドバイスをくれました。
浴槽、鍋という鍋に水を貯めました。
電気で使える鍋があり、それで前日に残っていたご飯で雑炊を作って食べました。近所のスーパーでは、パンなどのすぐ食べられるものは売り切れて買えませんでした。
どういう流れか覚えていませんが、夜は実家にいました。
実家で、夜中中、テレビの中継を見ていました。
我が家は山手にあったので、火の手が上がってくる心配はありませんでしたが、同じ区でも海側は火の海。いつかはこっちも火事になるのではという恐怖で、眠ることができませんでした。
翌日だったか?夫の同僚が大阪から8時間かけて、車で来てくれました。普通なら、1時間とか1時間半で来れる距離です。
どなたかのお母さんが握ってくれたというおにぎりを持ってきてくれました。シンプルな塩むすび、雑炊ではない固形のご飯がやたらと美味しかったのを覚えています。
会社が大阪だった夫は、そのまま同僚と車で大阪に行き、しばらくは、独身寮から通えることになりました。まだ余震が続く中、私と娘を2人にしておけないと、私たちは実家に留まることに。
自然と、別居生活が始まりました。
まだ神戸市営地下鉄が途中までしか走っていない中、私も仕事を探さなくてはと、急遽、短期のバイトが見つかり、同時に入園できる保育園も探しました。
今では、そんな融通きくことないと思いますが、入園できる保育園が見つかりました。なんと、そこで高校3年生の時の担任と再会(笑)年齢は違いましたが、子供が同じ保育園でした。
月1回くらい、夫は生活費を渡しに神戸に来ていました。話し合った結果、1993年6月、離婚届を提出。
空家賃を払っていた市営住宅も引き払いました。お隣にご挨拶に行くと、この部屋に引っ越してきた人はみんな早く出ていってしまうと言っていました。今となっては、分かりませんが、何かあったのでしょうかね?笑
実家に帰ってくるなと言っていた父も、何も言えなかったのか?孫が可愛かったのか?
私たちは、実家に居着くことになりました。
私が28歳、娘が7歳の時に亡くなった父。亡くなった後に母親に聞いたのですが…
元夫が「子供のために我慢して結婚生活を続けたい」と言った時、父は「結婚生活は我慢して続けるもんじゃない」と言ったそうです。
その後、義父から「お義父さんが、あんなふうに言ったから」と責められたそうです。
しかし、世間体を気にしていたのも事実で、離婚のことは会社の人には伝えていなかったみたいです。
阪神大震災で、見た目にはあまり分からなかったのですが、実家は全体的に傾いていて、半壊認定を受けました。
ジャッキで上げても800万円かかると言われ、母は、部屋も足りないということで、建て直してくれました。
エステサロン開業と父の死

離婚後、仕事探しをしていたものの、子供を持ちながらの就職は大変だと気づきました。
何度も面接で落ちて、やっと見つけたのは、会社員ではなくパートでした。2社ほどパートを経験した後、やっと会社員で雇ってくれる会社がありました。
お局のおばさまには気に入られて、何かと優遇されましたが、毎日誰かの悪口を聞かされたり、嫌いになったら平気で解雇する社長のワンマンぶりを見ていて、ストレスで初めて改善しないニキビ肌を経験しました。
休みの日、母にエステをしてもらっても、ストレスニキビは治りません。
そんな私を見かねてか?
「せっかく勉強したんだし、エステサロンしたら?」
と、母に言われて、自分で仕事をするなんて考えてもなかったのですが、ストレスから逃げたかったのか、そうすることにしました。
2000年4月、サロンオープン。同じ年、娘は小学校入学。保育園のお迎え時間も気にせず、仕事ができるようになりました。
同じ年の11月、ある日の夜、父が倒れたとの連絡がありました。私は、外出先で、よく家では父といた娘の前で倒れたのです。
当時付き合っていた彼氏の車で病院へ。
私が中学生の頃から、肝臓が悪く、入退院を繰り返していた父。倒れて、病院に運ばれたのは初めてのことでした。
本当なら、前の退院から自宅療養していなければならなかったようです。仕事に行っていたことに、お医者様が驚いていました。
振り返ってみると、同じ年の夏、体力は落ち、電車では通勤ができず、同僚が車で送迎してくれていました。体温調節もできず、エアコンが辛く、夏なのに毛糸のベストを着て会社に行っていたのです。
この入院で、お医者様からは「覚悟するように」と言われたのです。しかし、何度か入退院を繰り返していたので、また退院できると信じていました。
自営業になっていたので、時間にも融通がきくようになっていたのもあって、この時の入院では、まめにお見舞いに行きました。
ちょうど倒れる少し前、妹が結婚すると、彼氏を連れてきて、みんなで食事をしていました。
翌年の2月に結婚式を挙げる予定でしたが、父が生きているうちにと1月に予定を早めました。
しかし、やはりお医者様はすごいですね。
「年内持つかどうか」
その年の年末、12月28日の朝、父は永眠しました。

長女だったせいか?父にはすごく可愛がってもらいました。父の遺品を整理していた母が、定期入れの中から、私の中学時代の制服姿の写真を見つけました。
入っていたのはその写真だけで、「なんであんただけ」と妬まれました。
ブログとの出会い
長くなるので、少し割愛して、2008年、ブログとの出会いについて。
父が亡くなった後、すっかり元気をなくした母は、サロンを自宅に移し、知っている人だけを施術していました。
私は、母が購入して使っていた店舗に場所を移しました。
そのころは、ようやくインターネットも普及し、予約がない時間は、集客のためにブログを始めました。無料でできるホームページも自作しました。
駅から徒歩25分、バスで7〜8分、しかも坂の多い地域で、当時の主な集客媒体(フリーペーパー)では、何万円かけて1人来るか来ないか。
アメブロを開設して、発信を始めると、月に10人くらいの新規客が来てくれるようになりました。また、マタニティマッサージを導入することによって、遠方からもお越しいただけるようになりました。
キーボードで文字を打つのが好きで、子供の頃はカーボン紙で文字が打てるタイプライター、高校生の時、父にねだって、ワープロを買ってもらいました。
自分の文章を書くというよりは、好きだった料理のレシピをまとめたりすることが主な目的でした。
そのため、ブログ発信も楽しく始めました。英会話を習っていたので、帰国したアメリカ人の先生とコンタクトを取るため、Facebookを始めたのも早く、SNS発信も自然なことでした。
ブログを始めて、あることをきっかけに、アフィリエイトという仕事があることを知りました。
初めて情報商材アフィリエイトをして、4万円以上の報酬を獲得。
この時、

パソコン1台で、どこにいても仕事ができるようになりたい!
初めて自分自身の生き方、働き方が明確になったような気がします。
ブログアフィリエイトの成果
アフィリエイトという仕事があることを知って、最初はマニュアルを購入して実践していたものの、なかなかうまくいかず、ある時、広告を見て、約30万円のメルマガアフィリエイト塾へ。
1年所属して数十万円は稼げたものの、毎月それで生活ができるまでにはなりませんでした。
そんな時に、誘われたのがブログアフィリエイトの塾。
また、30万近い費用がかかります。
娘が高校3年生、韓国の大学に行くことが決まり、その準備をしていた頃と重なり、正直金銭的に厳しい状況でした。

しかし、これが最後という気持ちで入塾。
ブログを作り続け、3ヶ月で20万円。1年経つころには、80万円の報酬が得られるようになりました。そのころ、会社を設立、サロンも閉業し、アフィリエイトだけで生活するようになりました。
ここから順調に売り上げが伸び続けたわけではありません。
Googleの検索エンジンアップデートで上がったり、下がったり。SEO対策が得意な男性アフィリエイターと協業したり、新たに学び直したり、アフィリエイトだけでも波瀾万丈な経験をしました。
一番の成果は、美容ウェブサイトで1ヶ月600万円。勢いもあり、広告主から取材記事の依頼も受けるようにまでなりました。
母の突然の死
話は前後しますが、娘が大学4回生の冬。
冬休みで、年末から帰国していた2015年1月。どこか旅行に行きたいというので、2人で台湾に行くことになりました。

出発は、1月17日。朝、近くの駅まで車で送ってくれた母。
「気をつけて行ってらっしゃい。」
「おばあちゃんも5月に行くから、またどうやったか教えてね。」
これが最後の会話になりました。
1月20日の夕方、台湾からの飛行機がの出発が大幅に遅れており、最寄り駅までの最終電車に乗れるのか?不安だったので、いつも夕方からお酒を飲む母に、飲まずに待っててとメールをしました。
返信がないので、もう酔って寝てるかも?
電車では帰れたものの、自宅近くのコンビニでタクシーを降りたのは0時過ぎ。疲れたので、ワインを買って帰りました。
電気がついているリビング。
新聞や郵便物が押し込まれた郵便ポスト。
何かおかしい。
玄関の扉を開けると、飼っていたワンコの糞尿がそのままに。
2匹のうち1匹が、フラフラと2階から階段を降りてきました。

どうしたん?
リビングには、誰もいない。
テーブルの上には、飲みかけの焼酎のワンカップ。
強盗?一瞬、血まみれの母を想像しながら、2階の母の部屋へ。
うずくまってブルブル震えている、もう1匹のワンコがいるものの、母はいない。
私や娘の部屋にいる確率はほぼない。
あと考えられるのは浴室。
浴室のドアを開けると、母が肩肘をついて寝ているように横たわっている。
寝ているような表情に思わず

何、寝とん!
と声をかけました。
いや、寝てない、すぐに救急車を呼びました。
「息していますか?」
と質問を受け、その時、初めて、母に触れた。冷たくなっていた。

してないと思います
そう言ったものの、救急車は来てくれました。
私は泣いたり喚いたりしていて、わんこ達と一緒にリビングにいるように言われ、娘が対応してくれました。
気がついた時には、和室に布団が敷かれて、母が眠らされていました。そして、警察官が2人来ていました。
そのあと、妹夫婦にも来てもらい、強盗ではないか、事情聴取が朝方5時近くまで行われました。
翌日、お通夜、そしてお葬式と無事終わりました。

母とは仲がいいとは言えませんでしたが、突然の死に、なかなか立ち直れず、3ヶ月間、引きこもりでした。
いろいろ落ち着いた同年の6月、1人で香港へ。1週間のんびり過ごしたのが、いいリセット期間になりました。

不安が不安な出来事を引き寄せる
ポジティブでいつも楽しそう!という印象を持たれがちな私ですが、わりと不安症な面もあります。
そのせいで、サロンをしていた時は、

「怪我をしたらどうする?」
「病気になったら?」
という不安が付き纏っていました。
美容ウェブサイト運営でも、毎月300万円以上の収入があるのに、

「またGoogleのアップデートで下がったら?」
という不安がつきまといます。
そのころ、妹と一緒に仕事をしており、ウェブだけよりも実店舗もあった方がいいということになり、もう一度サロンをすることにしました。
私はもう施術はしたくなかったので、スタッフを雇用して、妹には、お店やスタッフのことを任せることにしました。
これがまた大変でした。
スタッフのことも、お店のことも。任せっきりとはならず、私もよくサロンに顔を出さなければなりませんでした。
それでも、少しずつお客様に足を運んでもらって、ますます頑張ろうというオープン1周年の頃にコロナ。妹とも相談した結果、しばらく休業することに。
同じ頃、出来ちゃった結婚をした娘が里帰り出産のため、帰省。
そして、美容ウェブサイトのアクセスも激減しており、収入源がほぼないまま、ローン返済、家賃、妹への給与など、出費ばかりが嵩みました。
そんな中、1人目のお孫ちゃん誕生は、私にとって幸せな出来事でした。
「結婚なんてしない」
「子供は嫌い」
と言っていた娘。孫が見れるなんて、思っていませんでした。
コロナで誰にも会えなくなった時期に、久しぶりに娘と過ごした数ヶ月、お孫ちゃんとの時間、振り返ってみると、平穏で幸せな時間でした。

そのせいか、出産して1ヶ月半が経った頃、関東の自宅に娘たちが帰った後、急に孤独感が襲ってきて、よからぬことを考える日もありました。
自分と向き合う時間と手放しの時期
サロンはレンタルサロンとして、細々と活用しながらも、家賃以上の収入にならないし、アフィリエイト報酬も下がっていき、収入源がほぼないまま、どうしようか?
ある人に
「まり江さんは、人の話聞くのも上手だし、コーチングとか向いてるんじゃない?」
そう言われて、勉強を始めました。
同時に、コーチングを受けて、自分と向き合う時間もとりました。
根っからの自由人で、時間にも場所にも縛られたくない私は、店舗を持っていることが苦痛でした。
休業から約1年後、サロンを使ってくれる人を探し始めると、すぐに見つかりました。今もその会社が運営してくれています。
本来なら、スケルトンにして返してほしいというのが家主の意向でしたが、次の借り手も見つけたので、なんとか、使わせてもらうことを交渉しました。
アフィリエイトからも撤退すると決め、仲良くしていた広告代理店の代表に報告すると、美容ウェブサイトを100万円で購入してくれました。これには、今でも感謝しています。
借金は残ったものの、手出しなしで、サロンを手放し、ウェブサイトに関しては、お金をいただいて手放しました。
さらに、家族で住んでいた自宅もいつでも手放せるようにと、断捨離も始めました。近所の人が引っ越しするのか?と聞いてくるほど、毎日のように、粗大ゴミを駐車スペースに並べていました。
引っ越しと新たな出発
同じ市内に引っ越し。結婚していた時に家族で引っ越ししたことはあるものの、1人で新たな土地に引っ越しのは初めて。
用事で来ることはあっても、生活するのは初めてで、どこに何があるのか、お散歩がてらウロウロするのがしばらくの日課でした。
そういえば、実家から家族で引っ越したときも、ベビーカー押しながら、娘とぶらぶら散歩してたな〜とか思い出しました。
引っ越し年、ブログを始めました。ブログはオワコンと言われていましたが、やっぱりブログ始めたい。ただ、美容に特化したブログはもうしないと決めて発信を始めました。
と同時に、しっかりコーチングの集客もしようと、改めて、コーチングを学び直したところ、突然、友達追加されて、お試しセッションの申し込みが入りました。
聞いてみると、Instagramではなく、ブログからだったのです。
そこから、ブログで集客できるようになると分かり、ブログも俄然やる気になりました。
もう一つ、オンラインビジネスの情報発信をメインとしたブログを1年ほど運営しましたが、統合しようとしたら、元のブログを全部削除してしまいました。
そして、改めて、この自己紹介文を書いている次第です(笑)
複数の収入源を持つ経営スタイル
ブログのほかに、講師の方に発信していただくオウンドメディアも立ち上げました。オウンドメディアを立ち上げるきっかけになった出会いがありました。
この出会いで、収入源を一つにしない、複数の収入源を持つ軽視スタイルで安定した収益を生み出すという考え方が、私の中で腑に落ちました。
サロンの収入だけでは、アフィリエイトの収入だけではと、不安が付き纏っていましたが、複数の収入源を持つという経営スタイルで、その不安はなくなります。
店舗を持たないオンラインなら、初期投資も少なく、またランニングコストも多くはありません。店舗を持っていても、店舗×オンラインの掛け合わせで、収益を伸ばすことができます。
ブログ1つとっても、複数の収入源を持つことができます。
今は、オンラインビジネスで複数の収入源を持つ考え方を発信したり、集客やビジネスに悩む方々の相談役として活動するとともに、コンテンツビジネスも始めました。