私の自分史にお付き合いいただき、ありがとうございます。自分自身過去に経験したことは、今の思考や行動に影響していることがあります。そのため、自分自身がどんな人生を送ってきたのか、振り返ってみると、いろいろな発見があります。
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引っ越しと親子3人の新生活スタート
旦那さんは大学、私は短大卒業後すぐ結婚だったため、私の実家にマスオさん同居をしていましたが、旦那さんのストレスが溜まってきたこともあって、引っ越しも考えていました。もちろん、お金はなかったので、できるだけ安く住めるところということで市営住宅を選びました。
今はわからないですが、当時の市営住宅は抽選で、定期的に抽選会場に行って、その場で当選したかどうかが分かりました。旦那さんが行った時は「ハズレ」。私は、運がいいと家族の間で評判で(笑)私が行くように言われました。
すると、1発で「当選」。実家から車で15〜20分くらいの市営住宅に引っ越すことになりました。
引っ越しの日の親子げんか
引っ越しの日、義兄が勤めている会社からトラックを借りてきてくれて、義父母と私の両親とで荷物を運びました。お昼ごはんは、まだ片付かない市営住宅の一部屋で、みんなでお弁当を食べました。
私の父と義父は喫煙者でしたが、私が赤ちゃんがいる場所での喫煙を嫌ったため、いつも2人は外に出て吸っていました。その日も、お弁当を食べ終わったら、2人で外へ。当時、まだ携帯電話もないときで、その後、2人の姿が見当たらないし、連絡も取れなくなりました。
近所で飲んでるのかも?と、昼から開いてるお店を覗きましたが見つからず、ひとまず私の実家へ。義兄がトラックを返す時間もあるし、高速道路が混むのも心配して、義父を待たずに帰りました。
それから私と旦那さんは、今は閉店してしまっている神戸三宮の東急ハンズへカーテンを買いに出かけました。当時、私たちは車を所有していなかったので、母の車を借りて。
その間に、父と飲んでいた義父から電話があり、父が酔っ払って動けないので、迎えにきて欲しいと。しかし、車がなかった母は、タクシーで帰ってくるようにお願いし、道順も説明。
買い物を終えた私たちが帰って少しすると、父たちがタクシーで到着。父はぐでんぐでんに酔っ払っていて、和室に寝かされていました。父は、肝炎を患っていて、何度か入院していましたが、回復するとまたお酒を飲むという生活でした。
父を誘って飲みに行った義父に、元夫が怒り始めました。冷静な口調でしたが、義父がキレて、家族が増えた我が家に置いてあった、簡易の靴収納棚を倒し、孫のベビーカーも投げつけました。
義父はDV夫で、若い頃、義母は何度も殴られていたそうです。夫の実家に行ったときも、暴力的な口調で義母に命令しているのを聞いたことがあり、今までに見たことのないタイプの男性に、やや引いておりました。
そんな暴力的な義父があらわになりました。元夫も大声になり、「もう来るな」「縁を切る」と言い出す始末。その後、何ヶ月間か、義父母は元夫が仕事の日を狙って、私と孫に会いに来ていました。
親子3人の新生活スタート
引っ越しの日のトラブルはありましたが、なんとか親子3人の新生活がスタートしました。市営住宅といっても、3DKと1歳の娘と夫婦、3人には十分な広さでした。おしゃれさはなかったけど、料理は好きだったので、自分で揃えたキッチン用品、食器で料理をしたり、食事ができるのは、なかなか楽しかったです。
神戸から大阪に通勤していた元夫の帰りは遅く、心細くなることもあったし、今でいうワンオペ育児でしたが、それなりに気楽に過ごしていました。その頃は、土曜日だけ、母のエステサロンへ手伝いに行き、平日は在宅でテープ起こしの仕事をしていました。
テープ起こしは、在宅で隙間時間にできると、母の友達に勧めてもらって始めましたが、実際は、娘が昼寝しないとできなくて、結局、娘が寝た夜から始めることが多く大変でした。
「実家に帰らせてもらいます」
そう言ったわけではありませんが、ある日、夫とケンカ。翌朝、目覚まし時計が鳴らなかったのを、私が前日のケンカの腹いせに目覚ましを止めたと責められた私は、プチンとキレてしまい、夫が仕事に行っている間に実家に帰りました。
ただ遊びに来ていたと思っていた両親は、食事の準備もしてくれましたが、私がもう帰らないと言ったことで、喧嘩をしたのだと察知。すぐに夫にも電話して、迎えに来るように言いましたが、夫はしばらく実家にいていいと返事したようで、しばらくいたような気がします。
何がきっかけでいつ戻ったのか?覚えていませんが、戻ってから別れたいと私が言い出しました。その時に言われたことは、今でも忘れられません。
新入社員研修も受けてないお前なんか、どこも雇ってくれへんわ!
個人事業主として、自分で働き始めたころ、名刺交換の作法やメールでのやり取りも分からず、これは私にとっては、コンプレックスでもありました。
この話し合いが、1994年の夏頃です。そこから、夫が親権を取るとか、子供のために頑張りたいとか、揉めながら話し合いを繰り返す日々だったような気がします。
ずーっと後に聞いたのですが、夫が「子供のために頑張りたい」と言った時、私の父「結婚は頑張って続けるものじゃない」と言ったそうです。そのことを、義父から責められたと、父が亡くなってから母に聞きました。
1995年1月17日 忘れもしない阪神大震災と離婚
何度も話し合った結果、1995年1月15日、当時はまだ「成人の日」で日本国内は祝日。お互いの両親に家に来てもらい、離婚することを告げました。私の父は、世間体を気にする人(後で知りましたが)で、実家には戻ってくるなと言われたので、私はそのまま市営住宅に残ることにしました。
まだインターネットが普及していない時代、翌日(16日)、夫は「賃貸住宅」を本屋で買ってきて、引っ越し先を探し始めました。
その翌朝、朝ふと目が覚めて、窓から赤い光が見えたような気がした瞬間、下から突き上げるような衝撃に飛び起きました。その後、揺れが続いている間、娘と私を覆い被さるように夫が守ってくれてた気がします。
寝室のベッドの周りには、倒れてくるようなものはなかったので、何も落ちてくることもありませんでしたが。1歳半の娘は、ただただぐっすり寝ておりました(笑)
揺れがおさまって、隣の部屋に行くと、出産祝いでもらった陶器のピーターラビットのオルゴールが落ちて割れていました。キッチンには、前日のお鍋に残っていたシチューがコンロから落ちていました。覚えている被害はそのくらいです。
ラジオで震災の様子を知る
私たちが住んでいたのは12階建ての2階部分だったので、揺れたといっても、上の階ほどではなかったかもしれません。落ち着いて、外に出てみると、上の階の人たちなのか、目の前の公園に毛布などにくるまって集まっていました。
早朝でしたが、近所の電気屋さんが開けてくれて、夫が電池を買ってきてくれました。それで、ラジオをつけて、ニュースを聞きました。なんだか、大変なことになっているということが分かりました。
しばらくして、電気と水道は使えましたが、近所でガス管が破裂したとかで、ガスは使えませんでした。電気調理器を母が買ってくれていたので、それでできるものを作って食べることはできました。
自然と別居生活スタート
17日の夜だったか?実家に戻りました。テレビでは、燃え盛る炎が映し出されており、私は山手の方だったので、火の手が上がってくることはなかったのですが、そのときは、恐怖でテレビの映像をずっと見入ってました。
翌日だったのか、もう少し経ってからだったのか?夫の会社の同僚が、大阪から8時間以上かけて車で来てくれました。どなたかのお母さんが作ってくれたという、白いご飯のおにぎりがめちゃくちゃ美味しかったのを覚えています。
夫は会社から独身寮から通うようにと指示を受け、同僚たちと大阪に行くことになりました。私と娘だけを市営住宅に置いていくのは心配だからと、私は実家にいることになり、自然と別居生活へ。
初めての保育園
離婚しても戻ってくるなと言っていた父親も、こんな状況で仕方ないと思ったのか、何も言わず私たちを住まわせてくれていました。母のエステサロンも暇になり、私は私でどこかに働きに出ることに。
とはいえ、なかなか職探しにも行けなかったのですが、当時はまだ生命保険の保険料を集金しているおばちゃんがいて、母のところに集金に来た時、3ヶ月だけ生命保険会社の窓口のバイトを探していると教えてくれたので、面接に行き、久しぶりに外で働くことに。
急遽、娘を保育園に入園させることになり、家からは少し離れていましたが、面談に行き、4月から入園できることになりました。それまでは、母がお店で預かってくれることになりましたが、2歳前の子供。じっとはしていません。
たまたま近所で、一時預かりの保育所ができて預けたり、母のサロンの近所のお家に同じ歳の子がいるからと預かってくれたりして、なんとか入園の4月まで乗り越えました。
入園後、慣らし保育からスタート。人見知りで、なかなか保育園に馴染めず、言葉も遅れているのか?と先生に心配されるほど。しかし、先生の動きはしっかり観察していて、家に帰ったら、先生の真似事をするので、話せないということはありませんでした。
入園して1年ほど経った頃から、いたずら娘の認定を受けるほど、おてんばさんになってしまい、それからは、お迎えに行ったら、頭を下げることが多くなりました(笑)
半年後の6月に離婚
阪神大震災が後押しとなって、別居生活がスタートした私たち夫婦。公共の交通機関が使えるようになってからは、夫が実家に来たり、保育園に迎えに行ってみたいと行くことも。市営住宅は、空家賃を払っていたので、そろそろ片付けようと2人で片付け&引っ越しの準備をしました。
父も渋々、実家に戻ることを許してくれたのか?私は実家に戻ることになりました。1995年6月、離婚届を提出。娘は同月、2歳になっていました。
離婚の手続きはあっさりと済みましたが、それでも精神的に疲れていたので、結婚していた時の「姓」をそのままに離婚しました。(娘が小学校に入るタイミングで、今の「尾﨑」に戻しました)
シングルマザー就職の壁
若さと勢いで離婚。仕事なんて、なんでもできる!と根拠のない自信がありましたが、ことごとく面接に落ちる日々…ある日のとある会社、出勤時間は早かったものの、終業時間も16時半と早かったので、保育園のお迎えも余裕で行けると思い、面接に行きました。
すると、面接を担当していたおじさんが「16時半で終わることはない」、残業になった場合は、母が迎えに行ってくれるというと、「そんなの甘い!」とお説教されただけの時間になり、悔しくて泣きそうになりながら帰りました。
今だったら、ハローワークに言ってるかもしれません(笑)
正社員ではなかったけれど、お弁当屋さんの事務で雇ってもらえることになり、まずはそこで1年ほど働いたでしょうか?23〜27歳で開業するまで、デスクワークをしていました。
もともと人見知りだったし、人と話すのは苦手だったので、母の仕事、エステティシャンという接客業は向いていないという思い込みから、当時はデスクワークしか考えられませんでした。
小さい子供を抱えて仕事をすることの大変さを、この時知りました。保育園からは「正社員じゃないと、延長保育はできません」と言われるし、数分でも送れようもんなら、「時間通りにお願いします!」と怒られたり。
卒園して、お迎えに行かなくても良くなってから、どれだけホッとしたか。その時、「じゃあ、最初から小学校に入れとけばよかったやん」と娘が言って、母と笑ったのを思い出しました(笑)
まとめ
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
1995年1月17日の阪神大震災は、命をなくした人、家や仕事を失った人など、神戸から阪神間の人には、いろいろな思い出が残っていると思いますが、私にとっても、忘れられない日です。
まだ生きていた祖母たちに、母が離婚したことを報告すると、父方の祖母は、「命があるだけでもありがたい」と言ってくれたそうです。命があったからこそ、結婚生活も頑張ってみてもよかったのかもしれません。
だけど、あの時の選択は、私の中の最善でしたし、後悔もしていません。