尾﨑まり江 自分史
まり江
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なりたい自分・理想の人生を叶える☆人生満足度100%にするための目標設定&達成をサポートしています、BEライフコーチ 尾﨑まり江です。

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自分史第4弾は、高校時代です。それまでの自分史は>>>こちらから

高校時代は、その場しのぎで生きていたような?そんな気がします。それなりに楽しかったけれど、振り返ってみると、中身のない、薄っぺらい思い出ばかりだなと思います。

そんな高校時代ですが、よかったら読んでみてください。

行きたくて行った高校だったけど…

尾﨑まり江 自分史

中学3年生で進学を決める時、歩いてでも行ける高校があったので、母はそこに行ってほしいと願っていました。

私はそこの制服がどうしても嫌だったのと、電車に乗りたいという理由で、塾の先生、母親の反対を押し切り、新設校3年目の兵庫県立伊川谷高校に入学。

電車通学なので、朝早くお弁当を作るのが嫌だった母からの条件は、自分でお弁当を作ることだったので、高校生の頃から自分でお弁当を作るようになりました。

母の作るお弁当は、汁物がご飯に染み込んでいたり、おにぎりが大きすぎたり、彩りも考えられてなかったりで、恥ずかしかったので、自分で作るようになって、ストレスが減りました(笑)

当時のお弁当の話をすると、妹は覚えていないというか、私が作ったお弁当を食べていたというので、妹の分も作っていたようです。(あまり記憶にないのだけど)

そのうち、妹の方が部活の朝練で早く起きるようになり、妹が作ったおかずを私は自分のお弁当箱に詰めていたように記憶しています。

厳しい校則

そんな条件を出されても行った高校でしたが、新設校で校則がかなり厳しかったのです。

どこの地域もそうなのか?私たちの地域がそうなのか?

頭のいい高校、ランクが上がるほど自由度が高く、トップの高校は私服でもいいくらい。

私たちの高校は、カバンや制服が決まっているのはもちろん、髪の毛を束ねるゴムの色、靴下の色にも制限があって、中学時代とさほど変わらず、高校生らしいおしゃれもできませんでした。

確か、遅刻したら、居残りをしなくてはならず、私は寝坊したら休んでました(笑)

数駅先の高校も同じように校則が厳しく、登校時間に間に合わなければ、校門が閉められていました。その頃起きたのが、校門圧死事件です。

その高校は、その事件を機に、校則が緩くなりましたが、我が校のとあるガラの悪い先生は「うちはそんなことがあっても、校則が緩くなることはないで!」と授業の時に言っていました。

今思えば、わざわざそんなこと言わなくてもいいのにと思いますが。

友達に誘われて初めてのバイト

尾﨑まり江 自分史

その頃、ほとんどの高校がアルバイト禁止だったけど、一部している人もいて、私も高校1年生の冬ごろ、友達に誘われて、ファミリーレストランの面接に行きました。

すぐに採用が決まり、事後報告で母に言うと、めちゃくちゃ反対されました。

「社会に出たら、嫌でも働かなあかんのに!今から働かんでもいい!」って、今では分かる分かる!って感じですが、当時は、少し大人びたこともしたかったのか?無理やりバイトを始めました。

人見知りで、人前で大きな声を出すのも恥ずかしく、入店されたお客様に「いらっしゃいませ」と言う声が小さいと、何度もやり直しさせられました。

月2〜3万円ほどのバイト代が入るようになりましたが、ほとんど洋服に使っていました。

最初は居心地の悪かったバイト先も、専門学生や大学生の先輩たちとも遊んでもらうようになって、楽しく通っていました。

18歳からは22時まで働くことができたので、4月生まれの私は高3になると、すぐに22時までの勤務にしてもらいました。

とはいっても、受験生でもあったので、5月のゴールデンウィークまででやめました。

後悔したこと

高校1年生の時のクラスは、1年11組。1フロアに10教室しかなかったので、クラス数が少ない3年生のフロアに、私たち11組の教室はありました。

なので、1年生の中でも孤立していて、他のクラスとの交流があまりありませんでした。同じ中学からも女子生徒は私を含めて3人ほどだったので、他のクラスとの交流といえば、彼女たちくらいでした。

2年生に上がる前、文系・理系・文理系のクラスへの希望が出せました。

理系・文理系は各1クラスずつで、2年生の間は、理系と文理系を混ぜたクラス替えで、3年生で完全に分かれる仕組みでした。

特に次の進学も考えていなくて、また同じクラスになる確率が高いと、同じクラスの友達と「文理系」に行くことを決めました。

理系が苦手な私にとって、この選択は大間違いでした(泣)

「代数幾何」となんだっけ?数学は2科目、生物、化学もあって、泣きそうでした。数学は赤点になりそうで、先生に「赤点にしないで」と頼みに行きました(笑)

暗記力だけは自信があって、一度、代数幾何の先生が「このまま出します」といったプリントを丸暗記したら100点でした(笑)

文理系のクラスは、看護学校に進学希望の女子が多く、みんな頭も良かったです。友達関係は良かったけれど、頭はぜんぜん付いて行けませんでした。

高校生活で後悔していることといえば、ただ1年生の時の友達とまた同じクラスになりたいという理由だけで文理系を選んだことです。

進路について

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進路を決めるとき、正直、もう勉強はしたくなかったので、進学はしないと言いました。

高校は一応進学校だったので、四年生大学には行かせたかったみたいです。特に文理系の生徒には。

一つだけなりたい職業がありました。それは、キャビンアテンダント。当時はスチュワーデスと言ってましたが。

海外のあちこちに行きたかったのが理由です。

東京にあるスチュワーデス専門学校の資料請求をしたところ、身長が足りないことに気づき断念。

「留学したい」と母に言うと、「家を売らないと留学なんてさせられない」と言われ、それも諦めました。

今だったら、お金のかからない方法を見つけだすこともできたかもだけど、当時は情報が少なく、すぐに諦めました。

すると、どこにも行く気がなくなり、就職すると言いました。

母子家庭で育ち、自分の弟を大学に行かせるために、進学を諦めたという母は、高卒なのがコンプレックスだったのか、「短大くらいは卒業しなさい」と説得されました。

エステサロンを経営していた母は、私も経営者になって欲しかったのか、「経営者になったとき、高卒じゃカッコ悪い」とも言いました。

中卒でも高卒でも、立派な経営者はいるんだけど、時代なのか?母の偏見なのか?やたらと短大だけでも!と説得を受けました。

短期集中で猛勉強

短大に行くなら、一番近くがいいと、電車の乗り換えなしで行ける学校を第一志望にしました。

担任の先生に呼び出されて、成績的に厳しいので、別の学校を勧められました。

どうしても「乗り換え」が嫌なのと、行くなら「英文学科」に行きたいと言い張り、第一志望を落とす気はないと、強気に出ました(笑)

高校3年生のゴールデンウィークまでバイトをしていて、本格的に受験を見据えて勉強したのは、それ以降でした。

推薦してもらうには、1学期からの成績が重要と噂で聞き、そこから猛勉強です。

特に塾には行かず、通信教育の教材で勉強。

夏休みは、高校と同じ駅にあった神戸流通科学大学の食堂で毎日勉強。創設者はダイエーグループの中内㓛(なかい いさお)氏ということで、食堂のご飯も美味しかったんですよね。

あまりにもうちの高校生が勉強しにくるので、大学側が2階の食堂スペースを開放してくれました。

無事、推薦もしてもらい、受験日は11月2日だったかな?

その少し前に、模試があり、受験結果よりも模試の結果が届き、その結果が今までよりも良くなってて、担任の先生が「(受験結果)楽しみだね」と嬉しそうに言ってきたのを覚えています。

合格通知がいつ届いたか覚えていないけれど、帰宅すると母が神棚に合格通知を置いてくれていました。今更、神棚に置いても意味がないのだけど(笑)

薄い封書を手に取った、落ちたと思いました。母の隣で開封してみると、なんと合格でした。

5月までバイトをしていて、追い込みで勉強して、11月には進学が決まったということで、友達からはやややっかみを受けましたが、高校受験で受かったときよりも喜びは大きかったです。

12月の冬休みから、別のところですが、バイトを再開。

寝坊も多くなって、3学期はほとんど学校に行った記憶がなく、お気楽な高校生活でした。

我が家のワンコ

私が高1のとき、妹の友達のところで生まれたワンコの1匹、ハッピーちゃん。この子以外は、保健所に連れて行かれたらしい。

甲斐犬が混じった雑種で、可愛いとは言えない顔つきでしたが、私には懐いている頼もしい番犬でした。

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高2にとき、友達が拾って飼えないからと連れてきたのがこの子。

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うちでも2匹は無理と言われ、飼い主が見つかるまでと預かっていた可愛い子でした。

確か、レンくんと呼んでいたけど、もらわれて行ったお家で「太郎」と名付けられました。

まとめ

恋愛の話がまったく出てこなかったですね(笑)

好きな先輩がいましたが、告白もせずに終わりました。他に男の子の友達はできましたが、恋愛に発展することはありませんでしたね。

駅から高校までの通学路に、ラブロードというのがあって、付き合っている男女は帰るとき、そこを歩くのが定番でしたが、3年の間、1度も歩くことはありませんでした(笑)