尾﨑まり江
まり江
まり江
人生満足度100%にするための目標設定&達成をサポートしています、BEライフコーチ 尾﨑まり江です。

これ以前の自分史は、こちら

自分史①誕生〜幼少期

今回の記事は、私が小学生の頃を振り返ってみました。

人見知りでクラス替えが苦痛

尾﨑まり江

まだ共働きが少ない時代だったのか?同じ保育園から同じ小学校に上がったのは、私を含めて3人ほどだったと思います。

ほとんどは、小学校に隣接する幼稚園から上がってきた生徒でした。同じ保育園だった子たちとは、記憶では、同じクラスではなかったと思います。

幼少期の人見知りは、小学生になったからといって、すぐに改善されるわけではなく…休み時間も黙って、自分の席で過ごしている子でした。

それでも、1人2人は話しかけてくれて、家が近い子と一緒に帰ったりして、友達にはなるのですが、また次の学年に上がると、クラス替えで1から友達作りをしなければならず、苦痛でした。

小学校1〜3年生までは、ほとんど誰と遊んでいたのか覚えていません。2年生の時、近くに新しい小学校ができて、そっちの校区の子たちは、新設小学校に転校したので、全部で3クラスになりました。

とは言っても、1年生の時に何クラスあったのか?記憶に残っていません(笑)

他人との同居生活

尾﨑まり江
新築のおうち

両親が結婚した時に建てた平屋の家を建て替えて、完成したのが小学校2年生の時。

妹と私の部屋も広くなった。

そこに、母が「きょうこ」という女性を連れてきた。なぜか覚えていないけど、一緒に住むという。しかも、私たち姉妹の部屋に。

その「きょうこ姉ちゃん」と私は仲が悪く、人見知りで内弁慶だった私は、よくこの人とケンカをした。

きょうこ姉ちゃんは24歳だったけど、大人気がなく、小2の私と本気でケンカをしていました。

いつ出て行ったのか、記憶にないくらい、あっさりいなくなっていました。

初の船旅&海外旅行

尾﨑まり江

小学校3年生が終わる春休み。1日早く通知簿をもらって、終業式を休み、母が連れて行ってくれたのがグアムサイパン行きの船旅。

確か、さくら丸という船。

尾﨑まり江

母は20代の時、鳥取県の代表で「世界青年の船」に参加し、3ヶ月間、船で東南アジアを巡ったらしい。

その経験がすごく良かったようで、私と妹にも経験させたかったのだとか。

終業式を休んだことで、「尾崎さんちはお金持ち」と話題になっていたらしいけど、後から聞いたら、ローンを組んでくれていたらしい。

ローンを組んでまで連れていく価値があったか、分からないほど、記憶は少ない…

乗船した当日は、ウェルカムパーティがあり、ごちそうが並んでいたけれど、船酔いで、船室に戻る前に、絨毯張りの階段で吐いてしまい、ご迷惑をおかけしました。

船の中には、映画館があって、母と見に行ったけど、寅さんのような大人しか楽しめないような映画しかしてなくて、子供には楽しめるところが少なかったな…

デッキにはプールがあって、妹と遊びに行ったら溺れた記憶も残っている(笑)長い枕の形の浮き輪がツルツル滑って、なかなか掴めなかった。

尾﨑まり江

やっとの思いで捕まって、助かった。という、あまりいい記憶とは言えない記憶しか残っていません(笑)

この記事を書くにあたり、写真を見返してみると、カラオケ大会(母と妹が出場してた)やヨガ、子供が参加するゲームなど、いろいろ催し物があったようでした。

今でも思い出すのは「まちこちゃん」という北海道から乗船していた女性。

人見知りで、あまり他人から可愛がられることがなかった私だったけど、そのまちこちゃんというお姉さんの船室には遊びに行ったりしていました。

この頃からか、人の好き嫌いというか、心を開く人開かない人への態度をハッキリと出すようになっていました。

グアムサイパンの記憶

尾﨑まり江

グアムサイパンで下船して、観光もしたはずだけど、こちらも記憶にはほとんど残っていません。

覚えているのは、海でナマコを踏んで、ギャーギャー騒いでいたこと。今でもナマコが嫌いなのは、あの時の足の裏の感触が残っているから(笑)

犬猿の仲の「きょうこ姉ちゃん」とのハワイ旅行

尾﨑まり江

久しぶりに、母に同居していた「きょうこ姉ちゃん」から電話があった。

お友達の新婚夫婦が親が急病で、ハワイ旅行に行けなくなったので、代わりに行ってほしいということで、しかも、チケットとホテルで50,000円という破格の値段。

母は仕事で行けないから、私に行っておいでと。グアムサイパンに行ったので、パスポートもあったということで、行くことに。

2万円のお小遣いを持たされて、ハワイへ行きました。

ハワイでのケンカ

尾﨑まり江
ワイキキビーチより

当時は1ドル300円くらいの時代。

銀行の前に、その日の為替が表示されていて、「お姉ちゃんが行ってきてあげる」とお金を預けて、両替してもらいました。

小学校4年生だったにも関わらず、計算が合わないと、きょうこ姉ちゃんに抗議。

散々もめた末に、ぷりぷり怒りながら、お金を返してくれたのを覚えています。今では、私の計算間違いだったのか、きょうこ姉ちゃんが誤魔化していたのか、分かりませんが、返してくれたということは、子供の私を騙そうとしたのか、それだったら、つまらない大人だったんだなと思います。

それ以外は、なんとなく平穏無事で過ごした記憶があり、グアムサイパンの時よりは、いろいろ記憶に残っています。

競うように書いた日記帳

日記帳

5年生になった時の担任の先生は、大の阪神タイガースのファンで、プロ野球のシーズンになると、阪神が勝った負けたで、宿題が出る出ないが決まり、必然的に阪神を応援していました(笑)

このクラスのスローガン?

元気(木)
根気(木)
勇気(木)

3つの木(気)を育てようということで、1年中黒板の上に貼られていたのを覚えています。

5年生の担任の先生になってから、日記帳を書くよう提案されました。強制ではなかったと思います。

国語帳に日記を書いていき、5冊になると先生が1つにまとめてくれて製本してくれました。

三日坊主の私が、同じクラスの日記をよく書いていた生徒と競うように、日記を書き続けました。

初めて、競争心というものを抱いたのはこの頃かもしれません。

とは言っても、別に仲が悪いというわけではなく、日曜日にみんなで担任の先生のお家に遊びに行ったこともあります。

怒ると怖い先生だったけど、フレンドリーで話しやすかったせいか、今まで通信簿に「大人しい」「人見知りをする」「消極的」と書かれることが多かったのに、5年生の時だけは、家庭訪問でも「そんなふうには見えません」と言われて、親も驚いていました。

なぜかワガママ娘に

尾﨑まり江

小学校6年生。

5〜6年生くらいの友達は覚えています。

その頃、友達の前ですごくわがままになったことがあり、批判をつらつらと書き連ねた手紙が家のポストに入れられていた。

親以外の人から怒られたり、批判されたりが初めてだった(記憶の中では)ので、悲しくもなり、反省もして、翌日すぐに謝りました。

それでも、そのグループにはいずらかったのか、他のグループの女子たちと遊ぶことが多くなりました。

彼女たちは、中学に上がると「不良」と呼ばれるカテゴリに分けられる子たちだったので、6年生にして、すでにやや大人びていて、今までとは違う世界でした。

当時、自分のお小遣いがいくらだったか覚えていないけれど、中学生になって、2,000〜3,000円だったので、小6の私には、5,000円以上は大金で、お正月くらいしかお目にかからない金額でした。

しかし、その子たちは、5,000円どころか10,000円とか持っていて、駄菓子屋でみんなに奢ってくれたりしてました。

お母さんのお財布から取っているという話も湧いてくるほど、なぜかお金を持っていましたね。

初めて暗くなって帰った日

尾﨑まり江

6年生の時、コックリさんが流行っていました。

当時は、周りの影響で、男子生徒の中で誰が好きかみたいな話もしていて、その子の気持ちをコックリさんに聞いたりして遊んでいました。

今は怖くてできませんが。

そのコックリさんで使った紙は、土に埋めないといけないとか、コインは使わなければいけないとか…そんなルールもきちんと守っていました。

ある日、どこかでまたコックリさんをしていて、土に埋めたり、コインを使ったりで帰るのが遅くなり、すっかり日が暮れていました。

その日は日曜日で、帰るとアニメの「タッチ」が放送されていたので、19時過ぎていたのかな?

初めて、両親の前で正座させられて、怒られました。

飼っていた動物

父が動物好きで、常に何か動物がいました。

犬、鳥(インコ)、ウサギ、金魚、カメ、リス。

写真に残っていたのは、犬とリス。

犬は、マルチーズとスピッツの雑種で、真っ白でよく吠える子でした。

尾﨑まり江

父は動物好きで可愛がっていたけど「犬は番犬」という意識が強く、家で飼うことは許されず、このリリーも外で飼っていました。

兄弟犬の中では、一番長生きしたようですが、最後は病気だっただろうに、病院に連れていくこともなく、私が中学1年生の時に亡くなりました。

その経験から高校生から飼っていたワンコが、食欲なくなった時は、引っ張ってでも連れて行くと、子宮が腫れていて、摘出手術をしました。

リスは、私がどうしても欲しくて飼ってもらいました。

尾﨑まり江

小さな首輪を付けたくて、父につけてもらおうとしたら、全然なついてなくて、思い切り指を噛まれて、血が止まらなくなったのを覚えています(笑)

まとめ

幼少期の人見知りに続き、ずっと人見知りは続いていた小学生時代。

とはいえ、好きな人には心を開いたり、嫌いな人には心を完全に閉じてしまうという、はっきりと態度に出してしまう子供でした。

内弁慶で、家ではわがままで母にはよく怒られていた反面、おそらく甘えたいという気持ちもあったんだと、振り返って思います。

母が旅行に行くと、熱を出すことも多く、それは短大までありました。反発しながらも、優しくしてほしい、もっと構ってほしいというサインだったのかもしれません。