尾﨑まり江
まり江
まり江
人生満足度100%にするための目標設定&達成をサポートしています、BEライフコーチ 尾﨑まり江です。

今回の記事は、私、尾﨑まり江がこの世に生を受けてから、幼少期のお話です。もちろん、私の記憶には残っていませんので、両親から聞いた話を元に書いております。

母妊娠中〜出産まで

尾﨑まり江

尾﨑まり江1971年5月3日、両親は結婚。

母は結婚しても働かせてくれるという父とお見合いで出会い、結婚。

父の貯金を使い、手芸店を開業したと聞いている。

結婚してまもなく私を身籠ったものの、大きなお腹で編み物の免状を取得しに通っていたそう。

当時は、今ある最寄駅は開通しておらず、峠を越えなければ電車に乗れなかった。

結婚と同時に鳥取から兵庫県神戸市に来た母だったけれど、たくましく、手芸店を切り盛りしていた。

1972年4月、出産当日も手芸店にいた母だったが、お腹に張りを感じ、歩いて数分の家に帰り、お風呂に入って、自分でタクシーを呼んで助産院に向かったらしい。

母親である祖母はまだ鳥取、経理をしていた父は、会社の決算月で残業続きの日々。

母は助産院で、身内の付き添いなく、18時半に私を出産した。

逆子で、臍の緒が首に巻きつき、鳴き声を上げなかったそう。お尻を叩いて、ようやく鳴き声を上げたと聞いている。

出産後1週間で仕事復帰

尾﨑まり江

従業員も雇っていなかった母は、1週間で仕事復帰。

私は大きな乳母車やゆりかごで、お店の片隅で寝かされていた。

尾﨑まり江

まったく記憶にないけれど、お店で九官鳥を飼っていて「まりえちゃん」と呼んでくれていたらしい(笑)

仕事は早く終わった父が迎えに来ることもあったそうで、おくるみに包んで、大事そうに抱きかかえてのを、手芸店のお客さんであり、その後も「神戸の母」と母が呼ぶくらい縁のあるおばあちゃんが話してくれた。

会社員だった父は土日がほぼ休みだったので、休みの日は、父と過ごしていたようです。膝の上に座って、よく本を読んでもらっていたみたいです。

人見知りの激しい幼少期

尾﨑まり江

いつ保育園に入園したのかは分からないけれど、記憶にあるのは、保育園の入り口で泣き喚いて、母や先生を困らせていたこと。

「小山先生」という年配の先生はよく覚えている。いつも怖そうな顔をしていた。

あと同じ年の園児にしては体の大きな女の子が、毎日お弁当のおかずをみんなから1つずつ巻き上げて食べるボス的存在で、その子のことも怖かった。(中学生の時、塾で再会したが、変わらずイカつかった)

母の手芸店は、とあるショッピングセンターと言われる施設にあり、定休日が決まっていた。

週1回の定休日は、保育園を休み、遊びに連れて行ってくれたり、家でケーキやお菓子を焼いてくれていた。

大きくなって、保育園の出席ノートを見ると、ほとんど休んでいる月もあり、登園拒否っ子だったのかと(笑)

クリスマスの思い出

季節の行事ごとは大切にされていて、クリスマスにもプレゼントが用意されていた。

ピンクレディのミシンをお願いしていた、とあるクリスマス。

お店を終えた母と帰宅すると、ミシンが玄関先に置いてあった。

小学生に入ってからか、ふと疑問に思い、母に、
「仕事中、お店抜けた?」
と聞いたら、「うん」と言ったので、サンタクロースは親なんだと、早めに知ってしまった(笑)

お留守番

両親ともに働いていたので、大きくなってから、何度も「寂しい思いをさせて悪かった」と謝れることもあった。

いつくらいから留守番をしていたのか、まったく覚えていないけど…

両親が家に帰ってきたら、背が届かなくて、電気が付けられなかった私は、月明かりが差し込む窓際で絵本を読んでいたという話も聞いたことがあります。

今では、そんな子を留守番させるなんて、考えられないですよね(笑)

まとめ

とにかく人見知りが激しい幼少期。

仲の良かった友達も思い出せないくらい。友達いたのかな?

同じ保育園から同じ小学校に上がった子は、私を含めて3人なので、その2人はなんとなく覚えているけど、ボス格の女の子のほかは、全く記憶にない保育園時代です。

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